長寿の不幸                  
                                母卒寿ともに新茶を誉めにけり

 誰が言い出したか知らないが、長寿をめでたいと言うのは嘘だ。母は、今年九十を越えたが、毎日生きることの辛さを嘆いている。五感はもとよりすべての身体機能の極端な衰えは、近じかそれらを失うこと、言うまでもなく死を自覚することである。だからホントに心細くてつらいだろうと思う。その意味では、回りに気を遣って生きなければならない正気で長寿の本人が一番めでたくはない。

  介護制度も延命医学も、不自然で矛盾だらけであることは、一度体験すればわかることだ。介護する人もされる人もまったく不幸で、幸せなのは介護ビジネスにかかわる人だけじゃないかと思うほどである。

 去り行く人は、自分の老醜ばかりを愛する家族や知己らに残したくはないだろう。美しさと縁の薄い私でも真っ平ごめんである。見送る側の人だって、故人の健在な頃味の違いは多少あるだろうが、美しく年をとるという言葉、これほどの虚言はないのではないか、とさえ思うほどになった。

 天性の容姿と美しい声、上品なしぐさ、豊かな教養とみがかれた能力、これらは、人をして美しく感じさせる大切な要素である。しかしどの要素も、肉体的衰えと同調して、その美しさはどんどん損なわれてゆく。
 長寿の俳優や歌手を見れば判ることだが、容姿は言うに及ばず、声もしぐさも芸そのものも、全盛期の美しさを無残なまでに失っている。これはなにも著名な人間だけに当てはまる話ではない。万人に等しく訪れて不可避の、土に還りやすくするために仕組まれた、諦観促進プログラムのひとつなのだろう。

 去り行く人は、自分の老醜ばかりを愛する家族や知己らに残したくはないだろう。美しさと縁の薄い私でも真っ平ごめんである。見送る側の人だって、故人の健在な頃の思い出を壊したくはない。なのに残されるものは、矛盾だらけの介護への悔恨と、長寿がゆえに生じた、故人の追憶に障る無用の記憶が大半なのである。長寿なんて、なんにもめでたくない。 

 卒寿の親を前にして、長寿を忌み嫌うとは何事かと顰蹙を買うのはわかるが、齢九十を超えた母の、生きるつらさに出会ってみれば、そうなのかもしれないと少しは許されたい。介護と延命の矛盾を体験した上での、否めない私の実感なのだ。

 義姉によると、あれだけお茶をたしなんだ母が、最近は白湯で結構と言うらしい。母の味覚は衰え、もうお茶の嗜好さえなくし、潤えば何を飲んでも同じになっていたのだ。迂闊にもそのことに気づかないで茶を届けた私に、新茶はおいしいねと礼を言う母が哀れでならない。


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