たづくということば                  
                                八坂なるたつきの路や雪もよひ

 辞書によると「たつき」という言葉はなく「たづき」が正しい。言うまでもなく「たづき」とは生活あるいは暮らしの手段である。この言葉を知ったのはいつ頃だっただろうか。最も遠い記憶は、今は亡き名優杉村春子さんが主演していたテレビドラマの台詞である。その時の彼女の役どころは江戸っ子芸者だったと思う。
 独特のあの渋い声音と口調で「あっちはこれでたつきを立てているんだ」と言ったのが「たづき」との初めての出会いであった。その台詞が私には「たつき」と聞こえたのだが、その聞き違えが今も続いているわけだ。
 この言葉、私の国語辞典に記載はなく、古語辞典に解説してあるような言葉だから、間違っても仕方ないような気もするが、なぜ句作りにこの言葉が浮かんできたのだろだろうか。後で考えるとその方がよほど気がかりになった。
 この句は、ある下町の八坂神社のはずれの路地裏を散策した折につくったものである。その界隈の冬の佇まいは、駅前の華やぎには程遠く、自分が育った下町の貧乏長屋のわびしい昔を思い出させた。
 お給料をいただいた幾日かは夕餉のおかずはまあまあで、その後は目に見えて粗末なものになってゆく貧乏所帯。しかし、そんな家にもそれなりの楽しみはあった。お正月をはじめとして、季節ごとの年中行事を一家みんなで楽しんだものだ。
 貧乏と、それゆえの家族のまとまりが一対になった、もう返れないつましくて懐かしい昔の生活。住まいも生業も、子供の進学も、すべてにままならないそんな貧しい生活に、「たつき」は使える言葉なのだ、と自分の中にきまりが出来てしまっていた。だから、たづきを失ったような路地裏の民家の家並みに、昔の記憶がよみがえり、重なったのだろう。

  古語辞典に「たづき」は、否定的な、なす術がないときに使う言葉と解説されているから、私の用法は、「つ」と「づ」以外おおむね誤用ではなかったようだ。
 豊かすぎる生活に不満を抱くような今どき、「たづき」が死語になるのは当然ではある。しかし、すでに老輩の私にとって「たづき」は、貧乏ながら楽しく暮らしていた幼少の頃を思い出させてくれる大切な言葉の一つなのだ。私にとっての「たづき」の話である。

もくじ