| 耳の記憶
冬の夜の法華の太鼓犬の声 |
| 先輩のIさんはこの句について「古すぎる、今どき町中のマンションに住んでいてこれはない」と言った。Iさんは写生派だからご指摘の意味はよく理解できる。しかしそう言われても、私のような駆け出しは、感動即五・七・五とはいかない。机に向かい記憶を頼りにひねっていると、いろいろ記憶が甦ってしまい、合成写真のような句が出来てしまうのだ。それを見抜いてのご意見だと思う。 その通り、この句も冬の夜以外は、私の幼時の記憶を貼り付けた「合成写真句」である。谷内六郎さんの絵によくある、「子供が寝床で怖いものを連想して寝付けない情景」を思い出してもらえればいい。谷内さんの記憶と同じく、幼い頃の夜は真っ暗で強盗とお化けと人攫いと、それから怪しい物音の世界だったのだ。 夜の九時すぎには六畳の間に姉と兄が布団を敷き始める。電灯を消して、寝床について眠りに落ちるまでの束の間の楽しみは兄弟姉妹での無駄話である。長いと親から叱りの声が飛ぶので十時にはみな眠りについた。隣の四畳半には両親も寝床にいて、眠る前に必ずその日におこった世間話をしていたが、両親の話し声を最後まで聞いた記憶は殆どない。しかしたまに、家族みんなが寝静まったのに自分ひとりが目覚めている夜があって、そのとき必ず思い出すのが姉や兄から聞いた怖い話であった。 言うまでもなく強盗とお化けと人攫いの話が定番で、今考えると可笑しいのだが、街灯さえ少なかった時代を感じて懐かしくもある。そんな夜聞こえてくるのは、怪獣が迫ってくるような路面電車の軋む音、泥棒や強盗を警戒する犬の遠吠え、怪人のものに違いない靴音、隣家の老婆が夜毎唱える呪文と拍子木、それから、耳を塞がずにはいられない法華の太鼓と読経の群、みな恐ろしいものであった。 しかしどんなに怖くても眠れるのが子供で、いつの間にか眠りに落ちて、気がつけばドロボーもゴートーもいない、いつもの明るい朝なのだ。そんな朝の懐かしい音の始まりは、どこかの家の鶏の声、運河の汽笛、米を研ぎしんこを刻む音、ラジオの声、毎日通る自転車のちりんちりん……。 私の耳の記憶は、目とはちがったものを思い出させてくれる。視覚の記憶は写真にして正確に残せるからか、その他の情景の記憶は薄らいでいる。しかし音を辿れば、幼少のころ感じた安らぎや楽しみ、あるいは悲しみや怖さにいたるまで懐かしく思い起こすことができるのだ。 耳の記憶は、無形の懐かしさを膨らませることはあっても、決してしぼませることはないような気がする。 一句は冬の夜に、法華経信者の一団が我が家のそばを横切るときの音の記憶である。精進の音が怖さをもたらすとは矛盾だが、子供にとっては信仰にかかわる音、たとえば托鉢僧の読経の声や錫杖の金輪の響き、虚無僧の尺八の音などはみな共通する怖い音だったのかもしれない。 夜更けに聞こえた法華の太鼓と読経の声は、確かに怖かったと、思い出していただけるのではないだろうか。 |