| 珈琲カップでお茶
信楽の茶碗のぬくみ外は雪 |
| 我が家には信楽焼きの湯呑み茶碗と珈琲カップがある。湯呑み茶碗のほうは厚手なので扱いやすいが、珈琲カップは陶器なのに薄手に出来ていて、取り扱うのに要らぬ気を遣う。グリップのところがすぐに欠けるのだ。私はそのたびに買ったときの値段を思い出し、アロンアロハで再生するのだが、もし買値が安かったならこんな努力はしないと思う。もうとっくの昔に土に返していただろう。
陶磁器の価格といえば、近頃スーパーで見かける値の安さには驚かされる。大事に使えば一生使えることを考えると、価格の優等生といわれている卵もバナナも高く感じてしまうほどだ。この前も、結構な湯呑み茶碗がたったの二百円で売られていた。 作った人にホント申し訳ない心地がする。 そういえば、陶磁器の価格つながりで感じることがもう一つある。それは素人の個展や展示会で売られている作品につけられた即売価格のことだ。ぐい飲みや茶碗ひとつが三千円とか五千円には恐れ入る。探せば、結構いいものが安く手に入ることはわかっていても、その場の雰囲気にのまれてつい買ってしまうのだ。家に帰って冷静に眺めて、しまったと思うのだが、ご祝儀相場ということでこれは仕方ないことなのかもしれない。それと、作者が知人だという薀蓄価値がつくしね。 その点、ブランドに支えられた玄人の作品の場合はちょっと違う。先輩のNさんは、私から見ると、こ汚なくて作りそこないにしか見えない信楽の壺をン万円で買って大切にしている。私のカップと違って、眺めるだけで満足できるらしいが、彼ほどの人をしてその気にさせているのは、確立された伝統的作風と信楽ブランドがあってのことに違いないのだ。信楽というブランド価値がなければ、私だって割れたカップの修繕などしない。これはもうブランド商品に弱い女性と同じで、先進国における高度消消費生活の典型でしょうかね。 いずれにしても番茶をいただくには陶器の茶碗がいい。磁器は薄手なので熱湯で淹れる番茶には茶碗が熱くなりすぎるため不向きなのだ。私などは、陶器でも熱くて持てないことがあるので、珈琲カップを使うことがよくある。緑茶と珈琲カップの相性ははなはだ芳しくないのだが、これでも十分お茶の温みは手に伝わる。もちろん味も変わらない。羊羹か最中があってしかも冬、そのうえ雪にでもなれば、私だけの至福の時間を十分に楽しむことができるのだ。 しかし、陶器でできた信楽焼きの珈琲カップで、アルミサッシ越しに降る雪を眺めながら番茶をいただいている情景は、この句からは想像できないだろう、しかも椅子に腰かけて。句会で選んでくれた人たちもきっと、緑茶、和風茶碗、座卓、和室、障子、縁側、庭に降る雪、などと連想してくれたに違いないと思う。 絵や写真では様にならない生活の一景も、俳句にまとめると結構いけることになる。作者でさえ日がたつと記憶は曖昧になり、この句はどこのおうちで作ったのかしらと混乱してしまうのだから。 |